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東京地方裁判所八王子支部 昭和62年(ワ)2264号 判決 1989年4月26日

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金三五五万六四一〇円及びこれに対する昭和六二年一月二六日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、町田乙野歯科の名称で歯科医院(以下「被告医院」という。)を開業する者である。

2(一)  原告は、昭和六二年一月二六日午前一〇時すぎころ、同医院で受診し、被告が雇用する歯科医師丙川三郎の診療を受けた。

丙川医師は、原告の口腔内を検査した後、原告に対し、親知らずが化膿している旨を告げ、抜歯を勧めたので、原告はこれを承諾した。

(二)  丙川医師は、エレベーター(ヘーベル)を使用して、原告の左下八番の抜歯を行ったが、この抜歯に要した時間は一、二分程であった。

(三)  原告は、抜歯を終えて帰宅した後、同日午後二時ころ、昼食のなべ焼きうどんに入っていたかまぼこを食べたところ、ガキッという音がして、左下顎の激痛に見舞われ、失神してしまった。

(四)  同日、原告は、町田市民病院で左下顎骨骨折の診断を受け、直ちに入院した。

3  原告の骨折した部位が抜歯した左下八番の直下であることや抜歯直後に骨折が発生したことを考えれば、丙川医師の抜歯行為によって原告の左下顎の骨にひびが入り、これがうどんを食べる際にずれたものであることは明らかである。

4  歯科医師が抜歯を行う場合、抜歯の対象となった歯の根が長い場合や歯槽骨が緻密で頑強な中年以降の男性の場合などが難抜歯とされているが、予めエックス線写真を検討するなどして難抜歯か否かを確認し、それに応じた抜歯方法をとらなければならない。

しかるに、丙川医師はこれを怠り、抜歯の対象となった左下八番が大きいうえに根も長く、また、原告が中年の男性であることから、当然難抜歯として歯根分割、根管中隔、歯槽骨の削除の方法によるべきであったにもかかわらず、安易にエレベーターによる抜歯を試みたのみならず、エレベーターに一気に力を加えたため、顎の骨に無理な力がかかって、骨折が生じたのである。

5(一)  原告と被告との間には、原告の歯の治療を行うことを目的とした診療契約が成立しているものというべきところ、丙川医師は被告の履行補助者に該るのであるから、被告は、原告に対し、債務不履行の責任を負担しなければならない。

(二)  また、被告は、丙川医師の使用者であるから、丙川医師の過失によって生じた原告の損害を賠償する責任がある。

6  損害

(一) 原告は、本件骨折事故当時室内装飾等の業を営み、一か月金四九万四〇〇〇円の収入を得ていたが、この事故により、昭和六二年一月二六日から同年三月三一日まで休業を余儀なくされ、その間金一〇八万三六一〇円の得べかりし利益を失い、同額の損害を被った。

(二) 原告は、町田市民病院に同年一月二六日から同年二月八日まで入院し、その間原告の母親がこれに付き添ったが、その費用は金五万六〇〇〇円であった。

また、入院中に要した雑費は金一万六八〇〇円であった。

(三) 原告が本件骨折事故によって被った精神的損害を金銭に評価すると金二〇〇万円が相当である。

(四) 原告は、原告代理人に本件訴訟を委任するにあたって、弁護士費用として金四〇万円を支払う旨を約した。

(五) 原告が本件骨折事故によって被った損害は、右(一)ないし(四)の合計金三五五万六四一〇円である。

7  よって、原告は、被告に対し、債務不履行もしくは不法行為に基づき、損害金三五五万六四一〇円及び本件骨折事故が発生した日である昭和六二年一月二六日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)、(二)の各事実は認める。同(三)の事実は不知。同(四)の事実は認める。

3  同3、4の各事実は否認する。

4  同5の主張は争う。

5  同6の事実は不知。

三  被告の主張

1  診療経過

(一) 原告が被告医院に来院した際の主訴は、二日程前から左下八番(親知らずもしくは智歯ともいう。)がずきずき痛むということであった。

(二) 丙川医師は、原告の健康状態や日頃の血圧等を問診したうえ、口腔内の検査を行ったところ、左下八番の動揺度が四段階中の二段階(左右のみならず上下にもぐらつく状態)であり、周囲の歯肉が腫れ、探針(プローブ)を遠心に入れると排膿した。また、エックス線写真では周囲に半月状の陰影が認められたため、智歯周囲炎と診断した。

丙川医師は、左下八番を抜歯せざるを得ないと考え、その旨を原告に告げたところ、原告もこれを承諾した。

(三) 丙川医師は、腫れの状態や抜歯後の状態を軽減させるため、術前に抗生物質(セポール)、痛み止め(ボルタレン)、腫れ止め(オノプローゼ)を投与し、その後表面麻酔薬(ハリケーンジェル)〇・二グラムを患部に塗布したうえで、浸潤麻酔薬(二パーセントキシロカイン)を周囲四か所に注射した。

(四) 約一〇分経過後、丙川医師は、麻酔が効いているかどうかを確認したうえ、抜歯を開始した。丙川医師は、原告の状態が難抜歯には該当しないと考え、通常抜歯の手順に従って抜歯を行った。使用器具も通常抜歯の場合と同様エレベーター及び鉗子のみであった。

(五) 抜歯後丙川医師は、原告にガーゼを噛ませて圧迫止血(約三〇分)したうえ、前記抗生物質、痛み止め、腫れ止め及びうがい薬を各三日分原告に渡して、昭和六二年一月二六日午前一一時三〇分ころ帰宅させた。

2  そもそも、原告の状態は難抜歯には該当しないのであるから、丙川医師が通常抜歯の方法を選択したことは当然である。そして、丙川医師は、抜歯前の検査も十分に行い、抜歯行為自体も一般の歯科医師が通常抜歯に用いる器具を正しく使用して行ったものであるから、丙川医師には何ら過失はない。

3  以下に述べるとおり、本件骨折事故は丙川医師の抜歯によって惹起されたものではないことは、明らかである。

(一) 浸潤麻酔薬では骨折部分の下歯槽神経まで麻酔が効くことはあり得ないのであるから、抜歯の際に骨折が生じたとすれば、その時点で疼痛が発生し、圧迫止血のためのガーゼを噛むことなどできなかったはずである。

(二) 原告は、同日午後二時四〇分ころ、疼痛を訴え、被告医院に再来院したが、この時には腫れや開口障害、咬合異常、顎の変位はなく、外部からの所見では、異常が認められなかった。抜歯の際に骨折が生じたとすれば、この時点では抜歯後既に二時間以上も経過していたのであるから、開口障害等が発生していなければならないはずであった。

四  被告の主張に対する認否

1  被告の主張1(一)の事実は認める。同(二)のうち、左下八番の動揺度が四段階中の二段階であったことは不知、その余の事実は認める。同(三)の薬品名は不知、その余の事実は認める。同(四)、(五)の各事実は認める。

2  同2の主張は争う

3  同3の事実は否認する。

第三  証拠<省略>

理由

一  被告が被告医院を開業する者であること、原告が昭和六二年一月二六日午前一〇時すぎころ、二日程前から左下八番の歯がずきずき痛むと訴えて同医院を訪れ、被告が雇用する歯科医師丙川三郎医師の診療を受けたこと、丙川医師が原告の健康状態や日頃の血圧等の問診の後に原告の口腔内を検査したところ、左下八番の周囲の歯肉が腫れ、探針(プローブ)を遠心に入れると排膿し、エックス線写真では周囲に半月状の陰影が認められたため智歯周囲炎と診断したこと、丙川医師が原告に親知らずが化膿している旨を告げて抜歯を勧めたので、原告がこれを承諾したこと、丙川医師が術前に抗生物質、痛み止め、腫れ止めを投与し、その後表面麻酔薬を患部に塗布したうえで、浸潤麻酔薬を周囲四か所に注射したこと、その約一〇分後に丙川医師がエレベーター及び鉗子を使用して原告の左下八番の抜歯を行ったこと、この抜歯に要した時間は一、二分程であったこと、抜歯後丙川医師が原告にガーゼを噛ませて圧迫止血(約三〇分)したうえ、抗生物質、痛み止め、腫れ止め及びうがい薬を各三日分原告に渡して、昭和六二年一月二六日午前一一時三〇分ころ帰宅させたこと及び原告が同日町田市民病院で左下顎骨骨折の診断を受け、直ちに入院したこと、以上の各事実は、当事者間に争いがない。

二  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められ(る)<証拠判断省略>。

1  丙川医師は、原告の既往症や血圧の状態等を問診し、原告の口腔内の視診等を行ったところ、左下八番の歯牙(親知らず)が前後左右に二ミリメートル程動き、自発痛、咬合痛がそれぞれ二(ずきずき痛む状態)であり、押せば多少沈み込むような状態であったため、智歯周囲炎で動揺度二と診断し、左下八番については抜歯の必要があるとともに、他の歯牙についても治療を要するものと判断した。

そこで、丙川医師は、原告に対し、左下八番の抜歯を勧めたところ、原告も、以前にも他の歯科医師からこの歯の抜歯を勧められていたこともあって、これを承諾した。

2  丙川医師は、抜歯の準備として、原告に化膿止めの抗生物質であるセポール二カプセル、鎮痛剤のボルタレン二錠、腫れ止めのオノプローゼン一錠を投与したうえ、口腔粘膜の表面を麻酔する表面麻酔剤であるハリケーンジェル〇・二グラムを原告の左下八番の麻酔の注射針を刺す部分の歯茎に塗った後に浸潤麻酔剤である二パーセントのキシロカイン二・七ミリリットルを左下八番の周囲の歯茎の四か所に注射した。

3  丙川医師は、その後、エレベーターと鉗子を使用して原告の左下八番の抜歯を行った。丙川医師の用いたエレベーターはB型直一号で、これを左下八番の手前頬側の歯槽下にあてがい、少し挿入して回転させ、さらに深く挿入して回転させたところ、歯が上がってきたので、それを下顎大臼歯用の鉗子で抜き取った。この方法は、通常の抜歯におけるのと同様であり、また、この作業に要した時間は、原告の左下八番が動揺して少し浮いている状態であったこともあり、一、二分程度で、抜歯が終了したのは同日午前一一時二五分ころであった。

4  丙川医師は、抜歯後局所を消毒し、原告にガーゼを噛ませて圧迫止血を行い、抗生物質等の内服薬を渡した後、原告を帰宅させた。

原告は、右圧迫止血の際に痛みを訴えることはなかった。

5  同日午後二時二〇分ころ、丙川医師は原告から電話を受けたが、その際原告は、丙川医師に対し、一〇分位前になべ焼きうどんを食べたところガキッという音がして痛くて痛くてしようがなくなったため、救急車を呼んだがどうしたらよいかと告げたので、丙川医師は、原告に対し、すぐ被告医院へ来るよう指示した。

来院した原告は、左の頬を押さえ、非常に痛そうな様子であった。丙川医師は、原告に口を開かせ診察した後エックス線写真を撮ったところ、原告の左下八番の下部の顎の骨に骨折線が認められた。右診察の際、原告は、三横指位口を開くことができ、開口異常は認められなかった。また、この時点では、原告に咬合異常、顎の変位も見られず、顔面に打撲の跡もなかった。

6  丙川医師は、原告を近所の総合病院である町田市民病院に移転せしめ、原告は、同病院の口腔外科で左下顎骨骨折と診断され、同日同病院同科に入院した。

三  以上の事実関係に基づき、原告の請求の当否について判断する。

1  右の事実によれば、丙川医師が原告の左下八番の抜歯を行ったときには、原告の左下顎骨骨折の発生を示す所見はなかったにもかかわらず、原告が被告医院に再来院した時点では抜歯した左下八番の下部の顎の骨に骨折が生じていたのであるから、先ず丙川医師の抜歯行為と原告の右骨折との因果関係が検討されなければならない。

この点について、原告は、抜歯の際に下顎の骨にひびが入り、なべ焼きうどんを食べようとしたときにこれがずれたものであると主張し、その本人尋問に際し、当日帰宅後の午後零時三〇分ころ、なべ焼きうどんを注文し、うどんを一、二本噛まずに啜り込んだ後かまぼこを食べようとして口を開けたところ、ガキッという音が耳に響くとともに左下顎に激痛を覚えて失神してしまったが、午後二時ころに気がついて救急車を呼び、被告医院に電話をかけた旨を供述する。

2  しかしながら、<証拠>によれば、抜歯の仕組みは、エレベーターを歯根面にあてて歯を回転させ、歯槽骨と歯の間にあって歯を支えている靱帯を切断することによって、歯を持ち上げ、これを鉗子で取り出すものであって、支点を設けて力を加える梃子の原理を利用するものとは異なるものであることや、一般に人の骨は衝撃的な力に対しては脆い反面徐々に加わる力に対しては非常に強い性質のものであることが認められ、前記認定の丙川医師が原告に対して行った抜歯行為も通常行われているのと同様の方法であり、これに要した時間も一、二分程度の簡単なものであったことを考慮すれば、丙川医師が行った抜歯の際に原告の顎に骨折を生ぜしめるほどの過重な力が加わることは考えられないといわなければならない。

3  さらに、<証拠>によれば、丙川医師が原告に施した浸潤麻酔は、麻酔薬を部分的に染み込ませる方法で、目的とする歯の周囲のみを麻酔する場合に用いられるものであって、下顎の骨にある下歯槽神経まで麻痺させることはできないものであり、仮に、抜歯によって骨折が生じていたとすれば、その直後に相当の疼痛を感じていたはずであること、また、下顎の骨にひびが入ったり、骨折が生じたりした場合、通常は発傷後三〇分程度で開口異常や咬合異常、顎の変位が起こるものであるとされていることが認められるところ、原告には、帰宅後うどんを食べようとしたときまで痛みを覚えた形跡がなく、被告医院に再来院した時点でも、開口異常、咬合異常、顎の変位等の所見は認められなかったことからしても、原告の骨折は、丙川医師の抜歯行為に起因するものであるとすることはできない(ちなみに、<証拠>によれば、原告が町田市民病院に入院した際には左顎部腫脹が観察されていることが認められる。)。

4  そして、原告本人の前記供述には、二時間の空白もあって、にわかに信を措き難く、結局原告の骨折の原因は、本件証拠上明らかではないといわざるを得ないが、前記認定のとおり、原告は、うどんを食べようとするときまでは、抜歯部位にも何ら痛みを感じていなかったというのであるから、原告の骨折は、丙川医師の抜歯行為後に何らかの事情によって発生したものと考えるほかはなく、丙川医師の抜歯行為と原告の骨折との間に相当因果関係が存することを肯認することはできない。

四  よって、原告の本件請求は、その余の点について判断するまでもなく失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 落合 威 裁判官 加藤謙一 裁判官 長久保尚善)

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